モッツアレラチーズ2 壱

中学に入学して、1ヶ月経った。自宅のある永国寺町の公立の中学校の校区は高知市立城北中学校であった。小学校時代には学校の授業や課題中心の勉強をしており、取り立てて中学進学の受験勉強はしていなかったので公立の中学校に通う予定であった。高知県では進学校といえば私立の土佐中と学芸中であった。いづれも中高一貫教育で難関大学に進学することを目的としている。公立の中学に入学すると高校に入学するのに試験を受けなくてはならないが、学費があまりかからないので両親の懐にやさしい選択であった。城北中学はその名の通り市の中心にある高知城の北方に位置していた。永国寺町の自宅から自転車で15分ほどかかる。学校に着いて、8:45分から朝礼があった。中学では何かにつけて朝、朝礼があった。朝礼では生活指導の先生や校長の訓話があったり、校歌を斉唱したりしていた。「仰ぎ見る古城の空に、♪輝くは自由の光、地に滿は進取の息吹♪ここ大土佐の中央にああその名燦(さん)たる我らの城北中学校♪♪」古谷校長の訓話が終わり、全校生徒900人ほどの生徒がグランドからぞろぞろと各教室に戻った。入学時のクラス編成で7組在る内の1年5組に組み入れられていた。クラスの担任の先生は東村先生という中年の女先生である。教室に戻り、決められていた席に着いた。2人掛けの机と椅子が横4列縦5列に並べてあった。最前列の席で隣席は西岡というかなり顔立ちの整った女性徒であった。1時限目は数学で正の数負の数の授業を受けていた。授業でポイント試験があり50問ほどの計算問題を解いた。計算の速さには自信があったので5分足らずで書き終え、島崎先生はと見ると教室を生徒の解きようを見ながら席の間を回っていた。驚いたことに僕より速くは問題を解けまいと思っていた隣の女生徒はとうに問題を解き終え、鉛筆を削っていた。6時限目の社会科が終わり、担任の先生の話が終わって、礼をしてから3時半にクラブ活動へと向かった。当時はどの生徒も文化、体育の部活に参加することが義務付けられていた。僕は小学校の頃忍者に興味があったので米津先生が顧問の剣道部に入部した。剣道部は南から北へ向かって3棟ある校舎の更に北側にあった講堂で器械体操部、柔道部とともに練習をしていた。部室は学校の東一帯を占めるグランドの西中央にあるプールの下にあった。部室に入ると傘のある裸電球が薄暗く部室内を照らしており、中学生とはいえ、いぶせき男の体臭が立ち込めていた。まだ袴などの剣道着を作ってもらっていなかったので青い色の中学校の校章マークの入ったジャージを着てへ講堂と向かう。剣道部には各学年5人で15人の生徒が入っていた。兎に角練習する場所に事欠く部であった。グラウンドでは野球部やバレーボール部、テニス部などが練習していたので、野球部のバックネットと講堂の間にある中庭をランニングしていた。ランニングの後講堂でだらしない感じの体操を(いち、に、さん、し、ごー、ろく、しち、はち)といった感じで手をにぎにぎしたりする。後、竹刀の素振りや二人一組の打ち込み(こて、めん、どー)をするのであった。部室で制服に着替えると5時を回っていた。5月なのでまだ明るかった。南側にある校門で同じ部の勝賀瀬君に挨拶をして、帰宅の途に就いた。家に帰って、3階の自室に戻ると弟が誕生日に買ってもらった反射式の天体望遠鏡の手入れをしていた。天体望遠鏡といっても弟はこれを使って、バードウォッチングをしようとしていたのである。永国寺町には街中にもかかわらず、近くに高知城公園がある所為かいろいろな種類の鳥が庭先に訪れるからである。5時半になって3階の隣の父の部屋から読経の声が聞こえ始めて来た(妙法蓮華経 方便品第二・・・・・・)。父はこの頃から仏教に傾倒して日蓮法華宗に入信しており、画風も欧米の抽象画から東洋的な水墨画や浮世絵などを取り入れた絵を模索していた。父が仏教を志した動機はモッツアレラチーズに伴う様々な不安定さの克服にあったと思う。

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