チョコ49

新年あけまして、遂に令和三年がやってきた。コロナは蔓延へと向かっているが、世の中の移動が少ない為か事故・災害などはそれほど報じられていない。遂にというのはお寺通いをしている僕にとって今年は宗祖大聖人が生まれて800年経つという期していた特別な年だからである。宗祖が生まれた時の世の中も天変地夭・災害・疫病があって甚だしく国は疲弊していた。当時の困難さは衣食住に事欠くことが一番大変であったに違いない。今の時代、異常気象や疫病の流行などにもかかわらず日本では路上生活者あるいは恵まれない子供や高齢者を除いては衣食住にはそう困ってはいない。疫病も800年前は人がバタバタ死んでいって人口が何割も少なくなるようなものであったが、今は検査で感染者が増えていることになっているだけで死者は複合的な死因の人も含めて数パーセントである。今の時代は国が疲弊しているというよりは世が衰えているといった趣になっている。この違いは自然と人工の違いであろう。800年前はあまり世の中に人の細工が入っていなかったのでむき出しの自然状態での困難であったが、今は人の下手な細工による困難があるからである。疫病も昔は自然に蔓延して、自然に消滅していったが、今は様々な細工によって歪んでいるので全く見通しが立たず混とんとしている。様々な細工とは現在の医療体制そのものやメディアの情報操作、政府の施策などを指している。自然な見えざる手は人工的ないらざる手と変わっている。細工はどこまで行っても下手な細工に終わるのである。今度のコロナ騒動でも終わってみればこのことが明らかになるであろう。なぜかというと疫病が広がる原因がわかっていないからである。800年前は宗祖大聖人が原因は国中の人が正法に背いて邪法を行じているからこんなことになると声を大にして国を正そうとしたが、今は政府が国民の会食を制限して拡大を抑えようとしているのである。疫病が広がる原因は人の唾液ではなく謗法に求められるべきである。疫病の本体は意外にも心の病だからである。昔は人工的な細工がなかったので謗法もわかりやすかったが、今はわかりにくい。今の世では正常と異常がわかりにくいのと同じことである。うちのお寺の宗派では12年も前からこの時に備えて謗法を駆逐する布教活動を続けてきたが案の定コロナ騒動は起きたのである。謗法とは法華経の心に背く行為である。法華経の心とは仏様の心である。800年前日本の衆生は悉く正に背いていたが、今も全く変わりはない。更に法華経の心とは正直で素直な心である。昔も今も変わりなく求められるのは正直で素直な心を基にして振舞うことである。謗法とは邪(よこしま)な心を基にして謀(たばか)ることである。従って疫病の原因も邪な心に求められる。正邪分明とは六根清浄である。自然状態では正邪を正し、正に帰伏させることも分かりやすかったと思うが、現今の世の人工的細工は六根にまで及んでいるのかもしれない。病が癒えるために求められるのは多様性やあいまいさや逃避ではなく正直さや素直さや健気さといった気質であろう。宗祖大聖人が800年前に声を大にして訴えたことは正しい道理であった。どうかこの先本来のあるべき自然に辿りつけますように。

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