チョコ33

11月も半ばになって高知県は秋らしい気候になっている。昨日今日とセーターを羽織っていても肌寒いほどである。今年もあと残すところ1か月半となった。24日には高知県の知事選と高知市の市長選がある。知事選では自公の推薦の候補者と共産党を中心とする野党の連合の候補者が立候補している。そこで、高知の今度の選挙は与野党の対立軸が比較的わかり易いものとなりそうである。個人的な選挙に対する関心は仕事と信仰に関わることである。殊に信仰に関しては信教の自由を守るということが政治的には何を置いても大切である。日本国憲法で初めて信教の自由が保障されてから70年になるが、宗教法人は戦後まもなくでは500を少し超えるほどであった。ところが現在では20万という数に上っている。税金逃れなどの不純な目的を持つ団体も多いのであろう。日本人は昔から八百万の神々を信じてきており、宗教的な潔癖さというのはあまりないかもしれないが20万という数はまことに信仰心の薄さを感じさせる。宗教にはおよそ正邪の判定基準というものが存在するのである。まず文証というものが必要である。教義・教説の基礎となる長い時の流れに耐えた経文・原典が存在しなければならない。次に理証いうものがいる。これは教義が道理にかなっているかどうかという判定基準である。道理とは論理もあるが結局は因果の道理である。更に現証というものが最も重要である。教義・教説に基づいてその信仰を実践して、意図した結果即ち利生・得益(りしょう・とくやく)が確かに現れるかということである。この判定基準に基づいて信仰を判定する時、篩(ふるい)には1つの正法・正義の珠が残るのみである。日本人の信仰心の薄さは信じる力の弱体化を示している。信じる力が弱いのは信じるに値するものがないという事だけでなく、五濁悪世の世ではすぐに疑いという毒で命が濁るからである。仏教において信仰の基礎となるのは信じる対象に対する信じる力の強さである。信じる力を実際の力に変えるのは行ずる力である。行とは唱題による祈祷や経文の読誦あるいは折伏(しゃくぶく)などである。実際の力とは仏力・法力である。仏力・法力が働くことによっていろいろな現象が引き起こる。強く信じ・強く行ずれば強い仏力・法力が働く。世の中においても信じる力は同じく行動の基礎である。1つの主義・主張を持つ団体は主義・主張について互いに信じあう力が弱ければ団体の実行力も弱いであろう。自分の練習方法や研究方法を強く信じなければ他の人にはできないスポーツの記録や研究も生まれてこないのである。今の世は価値が多様化した信じる力の弱い世の中になっている。信じる力の弱い世の中は認識や判断があやふやな世の中でもある。信じる力は善かれ悪しかれ認識や判断を確かなものにするからである。認識や判断があやふやでは前途を切り開いて進む力は出てこない。ところで仏教でも世の中の事でも何を信じるのかが一番肝心である。信じる力が強くても信じる対象が間違った、悪しきものであれば正しい力は生まれない。仏教において信じるべき対象を本尊という。信じるに値するものとは正しい本尊に他ならない。正しい本尊に向かって祈れば、感応して仏の智慧が湧く。仏の智慧こそ果てしない可能性の元なのである。一向正しい本尊とは教義・教説から明らかに違いない。

 

 

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