2020年

4月

10日

チョコ37

4月に入ってだいぶん暖かくなってきている。令和2年に入って昨日で100日が過ぎた。コスモスPCサービスではまだ1件の仕事も受けていない。足しげくお寺に参詣していて、仕事の電話番もしていないのだから当然かもしれない。最近ではコロナウィルス騒ぎでなおさら仕事が来にくい状態である。昔、小学6年生のころ風疹が流行り中学受験の日には風疹に罹っていた記憶があるが、同じウィルス性の流行病でも昔と今ではずいぶん様変わりしていると思う。病の重篤さの違いはあるかもしれないが物々しさが桁違いに増している。風疹はそのうち 収まっていったが、コロナウィルスは力づくでねじ伏せられようとしている。最近の世情では経済にしても政治にしても力づくで筋道をつけていこうとする手法が目立っているように感じられる。日本では昔は自然と調和していこうというあり方が支配的であったが今は自然を統御・支配しようというあり方が主調となっているよう見受けられる。欧米のとりわけ現代諸科学の影響であろう。過去を振り返って集積している情報を整理し、現在を考え未来を見通し、備えるというのが本来あるべき態度であろう。スピード感は必要だとしても、実験・検証を積み重ねて情報を集積するということを怠れば科学的といえる対応はできはしないのである。今の世情は今に力点が置かれすぎている。過去をゆっくり振り返る余裕はなく、未来を見通す透視力もないのである。あるのは今の苦境から逃避しようとする力行だけである。余りにスピードが重視され、今に力点が置かれ、地道な実験・検証がおろそかになると科学的というに値する対応はできないのではないだろうか。日本はまた自然と調和しゆく国になってほしいものである。現代科学には過去を正しく理解し、未来を見通す力はないが、仏法には3世の生命がある。過去世によって現世は規定されており、現世によって未来世は規定されてゆく。規定されている運命を変えていけるのは縁殊に仏縁というものがあるからである。仏に縁して運命は変えられるのである。本当に正しい科学的な考えというものがあるとすれば仏法でいう未来世はないということの証明が不可能だと結論することが可能であろう。仏法では生命は6道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を生死を繰り返して流転すると説かれている。また、人として生まれてくることは稀であるとも説かれている。人として生まれてくるのは過去世において五戒を保っていたからである。五戒とは1.不殺生戒2.不偸盗戒3.不妄語戒4.不邪淫戒5.不飲酒戒である。現代社会でこの五戒を保つのはほぼ不可能であろう。つまり、仏法的に言えば現代人はおよそ本来の人間らしい在り方からほど遠い生き方をしており、未来世においてまた人として生まれてくることは難しい世情なのである。ところが、私の参詣している寺院の宗派では正しい本尊を保ち法華経の題目を唱える所にある戒によって、五戒を修める功徳に等しい功徳が受けられるので濁悪の現代社会にあっても人間らしい清浄な生き方ができ、未来世には人として善処に生まれて来ることができると教えている。目まぐるしく変転する思考力に乏しい、災難の頻発する世の中を過去・現在・未来が矛盾なく連続する仏法によって老いたるものが敬われ、幼きものが愛される不老不死の世の中へと変えていけるのである。個人的にも社会的にも未来をよいものに変えていくのは仏法によるしかないのである。

 

2020年

3月

13日

チョコ36

今年もはや3月半ばとなった。3月11日で東北大震災から丸9年がたった。今はコロナウイルスで異次元の国難に遭遇している。日本は震災、異常気象、疫病などでこのところ国難続きである。コスモスPCサービスではホームページでブログを書き始めて今年6月で7年になる。ブログでは日本のいろいろな災難について書いてきたが、今度の異次元のコロナウイルス騒動を見ると、まるで無間地獄の様相を呈しているように感じる。コスモスPCサービスでは今年仕事が1件も来ていないので私はお寺通いの生活をしているため余計にそう感じるのであろう。お寺にも除菌タオルや消毒剤が装備されているが、消毒剤で手を消毒した後すぐにばい菌だらけの鞄を下げているので効果のほどは疑わしい。さらに自宅の除菌を考えるのは多くの日本の家庭と同じくナンセンスに近い。部屋のあちこちをゴキブリが跋扈しているし、冷蔵庫を顕微鏡で調べたら卒倒するほどの細菌が繁殖しているに違いないからである。ばい菌ノイローゼの人の家庭と違い、多くの日本の家庭はコロナウイルスを異次元の疫病と考えているのではないかと思う。日本が現在のような状況に立ち至った淵源はどこにあるのか。明治維新の脱亜に始まり、2次大戦敗戦後急速に欧米化が進んだのが主要因ではないのか。アメリカに負けた日本人は終戦後、DDTで消毒されていた。脱亜で日本は中国や朝鮮を悪友とみなして遠ざかり欧米と親しくしようとした。中国や朝鮮は日本に漢字や仏教や儒教といった脱亜以前の日本人の精神的な支えを教え、伝えてくれた国々である。このことに関しては明治時代の廃仏毀釈が象徴的である。これは明らかに日本の三宝(仏・法・僧)破壊の遠因である。このころから日本は仏教や儒教などの東洋的な精神から離れ、和魂洋才という分裂的な形で欧米の合理主義を学んでいった。最近の度重なる国難の原因は仏法的な視点から見れば謗法である。謗法はもとより三宝を敬わないところに端を発する。聖徳太子以来の三宝を厚く敬う日本の気風は日本の近代化とともに損なわれて行ったのである。三宝を敬う気風から生まれる社会の良識や道徳が世の正見を形成するのである。この三宝を破壊し、世の正見が破壊されると悪思想や邪見が世を風靡することになる。悪思想や邪見は人心を乱し、いろいろな災難を招来する。結果世は無間地獄の様相を呈することになるのでなる。悪思想や邪見は謗法であり、無間地獄の因である。中国武漢に発するコロナウイルスの日本襲撃はまるで鎌倉時代の蒙古襲来のようではないか。無間地獄の国状から国を救うには国の謗法を対治し、正法に帰さしめるしかない。

2020年

1月

04日

チョコ35

令和2年になって早4日目である。去年は年末に1年を振り返るブログが書けなかったので、年頭に当たり去年のことと今年のテーマなどを書いておきたい。去年は仕事が少なくお寺に参詣して、信仰活動をすることが中心の生活であった。宗教の宗という漢字の意味は根本ということで、宗教とは人の生き方の根本になる教えという意味である。従って、信仰活動を基本において生活をしていると生活の上に教えの影響というものが色濃く出てくるのである。参詣している寺院の宗派の教義の基礎になっている経文は法華経なので生活の上に法華経の影響というものは現れている。去年1年間何の事故も災難もなく送ることができたのはまさに仏に守られる生活をしているからである。1年のうちに6根は清浄となって、精神的な安定が得られ、正しい認識や判断ができたという事でもあろう。去年世間では洪水などの自然災害や大規模な火災あるいはあおり運転や児童虐待など様々な問題に翻弄されていた。普段はテレビ番組はニュースぐらいしか見ないのだが大晦日に紅白歌合戦を途中から観た。出演しているのはほとんど若者のグループで今の世相というものを反映しているのは昔と変わりはない。昔と比べて今の歌謡曲が良くなったか悪くなったかというのはナンセンスかもしれないが、歌詞を見ていると虚妄と実相というものを考えてしまう。個人的な妄想でしかない歌詞をつけている曲は人の心を動かすことはできないし、実を含んでいる曲は長く歌い続けられていく。去年の紅白歌合戦を見ている限りでは今の日本がしっかりと未来を見通して進んでいるようには見えなかった。その理由はアイデンティティーというものがしっかりとしていないと思うからである。日本はそして日本人はアイデンティティーを取り戻す必要があると思う。今年、令和2年は旧天皇の治世が終わり、新天皇の治世が現れてくる。日本の大きな行事として東京オリンピックというものがあるが、そこにも影響は出てくるに違いない。古くから変わらず、長く続いているものには実がある。表層の流行に流されない実力があるのである。昨今は世界のリーダーシップがアメリカ合衆国から離れつつあるあるように見受けられる。アメリカ合衆国は歴史の浅い国でそれゆえに新しいものを次々と生み出してきたが、原子力発電など見直さなければならないものも多い。やはり、根の浅いものは深いところにある問題や欲求を解決できず、求めることができず、時の流れに押し流されて消えゆくだろう。今後時代は実を求める方向へと舵が切り替わっていくに違いない。アメリカ人は改めて祖国イギリスの伝統的な智慧を求めるかもしれないし、西洋化している日本人もやがて東洋的なものに回帰する方向性は出てくるだろう。東洋の叡智には漢方や仏法など実に奥深い宝がある。インドで生まれ、中国で発展し、日本で完成し続ける仏教は変わることの無い諸法の実相を説いているのである。この実相こそ揺るぐことの無い全ての人のアイデンティティーの源である。言い換えると正しい本尊を信じる人達は自己というものがありながら自他彼此の心なく同心になれるのである。揺るぐことの無い実相とは正しい本尊のことである。

2019年

12月

18日

チョコ34

 

 

12月も半ばを過ぎ今年も締めくくりの時期に来ている。今年もコスモスPCサービス高知の仕事はごく少なかったので、お寺に足しげく参詣して信仰活動を中心の暮らしぶりであった。現代社会では科学的な発想や考えが世の中の基本、常識になっているので仏法的な発想は古いと思われがちであるが、逆に3000年以上の時の流れに耐えて今に至っているともいえるのである。最近COP25という世界的な会議で我が日本の若き環境相が日本の石炭による火力発電の問題で苦境に立たされていた。日本の石炭による火力発電がCO2の排出量を増し、地球の温暖化に悪影響を与えるとのことである。日本では福島原発の事故以来原子力発電を廃止もしくは削減の方向でエネルギーの供給を考えている。そこで、水力発電、火力発電、太陽エネルギーや風力などの自然エネルギーの利用で供給を賄うことになる。そうすると石炭による発電は必要不可欠といえるかもしれない。CO2排出量削減による地球温暖化防止というのは問題の解決方法として現実的であるといえるだろうか。現代の科学は時間という事を捉えてはいないと思う。地球規模の時間というものは40億年という時の流れが基礎になっている。地球規模の時間では地球の温度の100年の変化というものは1年に換算すると約0.8秒である。この変化の意味は捉えることが可能だろうか。もしこの変化の意味を問う時不思議という言葉でしか表現ができないとしたら、今の科学的スタンスでは問題の解決は不可能であろう。地震の予知も全く同じであると思う。科学では解決のできない問題に答えを出すのは正しい宗教である。宗教のほうが科学よりも遥かに時間というものをうまく捉えているに違いないからである。科学では人は死ねば終わりであり、未来はなくなるが、仏法では過去世・現世・来世の3世の生命を説いている。更に、仏法での時間の基本単位である1劫(いっこう)=約40億年となっているのも仏法が地球規模で時間を捉えていることを暗示させるものである。世の中ではよく時間を大切にするべきであるということが言われるが、寸暇を惜しんで充実した人生を送る理由を一体どこに求めるか。生存競争に打ち勝つためか、充実した時間の使い方をして名誉や富あるいは人類への歴史的貢献をするためなのか、こういった考えは人間の生も動物の生も死に至って同じところに帰着する。現代科学では死の瞬間に人間はいくら充実した生き方をしてもゼロになる。未来のない死体でしかなくなるのである。それどころか生きている人間すらゼロと評価しかねない崖っぷちに立っている。これは科学的考えが人間の現在を過去や未来と切り離し考えるからである。3世の生命観に立つ仏法に於いて、人間が時間を大切にしなければならない理由は人間として生まれることが実に稀だという所にある。仏法では人身は受け難し、爪上の土と説いている。仏法では人間本来の目的は成仏である。人間として生まれてきた時しか成仏に向かって精進するチャンスは来ないのである。しかも次の生への準備も必要である。それで人間にとって時間というものは掛け替えがないものとなるのである。一人の生命に関して仏法は過去・現在・未来という連続的な時間を規定して説いているが、科学ではこの3つが断絶している。科学では過去や未来と分断された現在を生きるのであるが仏法では過去や未来と業という因果で繋がった現在を生きるのである。科学は分断された因果の道理であり、仏法は連続していく因果の道理である。仏の道は古くて新しい、永遠に続く道である。

 

2019年

11月

15日

チョコ33

11月も半ばになって高知県は秋らしい気候になっている。昨日今日とセーターを羽織っていても肌寒いほどである。今年もあと残すところ1か月半となった。24日には高知県の知事選と高知市の市長選がある。知事選では自公の推薦の候補者と共産党を中心とする野党の連合の候補者が立候補している。そこで、高知の今度の選挙は与野党の対立軸が比較的わかり易いものとなりそうである。個人的な選挙に対する関心は仕事と信仰に関わることである。殊に信仰に関しては信教の自由を守るということが政治的には何を置いても大切である。日本国憲法で初めて信教の自由が保障されてから70年になるが、宗教法人は戦後まもなくでは500を少し超えるほどであった。ところが現在では20万という数に上っている。税金逃れなどの不純な目的を持つ団体も多いのであろう。日本人は昔から八百万の神々を信じてきており、宗教的な潔癖さというのはあまりないかもしれないが20万という数はまことに信仰心の薄さを感じさせる。宗教にはおよそ正邪の判定基準というものが存在するのである。まず文証というものが必要である。教義・教説の基礎となる長い時の流れに耐えた経文・原典が存在しなければならない。次に理証いうものがいる。これは教義が道理にかなっているかどうかという判定基準である。道理とは論理もあるが結局は因果の道理である。更に現証というものが最も重要である。教義・教説に基づいてその信仰を実践して、意図した結果即ち利生・得益(りしょう・とくやく)が確かに現れるかということである。この判定基準に基づいて信仰を判定する時、篩(ふるい)には1つの正法・正義の珠が残るのみである。日本人の信仰心の薄さは信じる力の弱体化を示している。信じる力が弱いのは信じるに値するものがないという事だけでなく、五濁悪世の世ではすぐに疑いという毒で命が濁るからである。仏教において信仰の基礎となるのは信じる対象に対する信じる力の強さである。信じる力を実際の力に変えるのは行ずる力である。行とは唱題による祈祷や経文の読誦あるいは折伏(しゃくぶく)などである。実際の力とは仏力・法力である。仏力・法力が働くことによっていろいろな現象が引き起こる。強く信じ・強く行ずれば強い仏力・法力が働く。世の中においても信じる力は同じく行動の基礎である。1つの主義・主張を持つ団体は主義・主張について互いに信じあう力が弱ければ団体の実行力も弱いであろう。自分の練習方法や研究方法を強く信じなければ他の人にはできないスポーツの記録や研究も生まれてこないのである。今の世は価値が多様化した信じる力の弱い世の中になっている。信じる力の弱い世の中は認識や判断があやふやな世の中でもある。信じる力は善かれ悪しかれ認識や判断を確かなものにするからである。認識や判断があやふやでは前途を切り開いて進む力は出てこない。ところで仏教でも世の中の事でも何を信じるのかが一番肝心である。信じる力が強くても信じる対象が間違った、悪しきものであれば正しい力は生まれない。仏教において信じるべき対象を本尊という。信じるに値するものとは正しい本尊に他ならない。正しい本尊に向かって祈れば、感応して仏の智慧が湧く。仏の智慧こそ果てしない可能性の元なのである。一向正しい本尊とは教義・教説から明らかに違いない。

 

 

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