2018年

6月

13日

チョコ20

5月の末から梅雨に入っているが、今日は洗濯日和である。このブログを書くに当たって、OSをWinsdows10からUbuntu18.04に変えた。変えた理由はOS市場でのマイクロソフトの独占支配が長いのでWindows10に至って個人のユーザーにとってはいろいろな面での強制力が強すぎると感じるからである。一方、Ubuntuは数年前利用したときと比べると格段にGUIの操作性が良くなっている。ブラ

ウザのFire Fox,メールソフトのThunder Birdは使いやすいし、プリンタドライバのインストールも簡単でマイクロソフト・オフィスとの連携もよい。インターネットとメール、簡単なビジネス用途であれば単純な操作しかできないとは言え、Windows10よりも軽くて使い易い。さて、昨日はテレビのニュースで米朝会談を見た。朝鮮半島の非核化に向けての話し合いが行われて、米朝の共同声明が出た。しかし、非核化に向けての合意がなされたにとどまった。日本にしてみると、ミサイルの危険も拉致問題も全然解決の方向には向かっていない。日本は、この他にも北方領土をロシアに我が物顔で利用されているし、竹島などの領土も脅かされている。更に、日本国内では開かれてきたといえば聞こえはいいが、外人労働者が128万人を数え、中国人には埼玉県の街を占拠されたり、日本の大学を受験のターゲットにされたりしている。安倍首相は国難突破解散ということで選挙に勝利したが、日本の国難は重なるばかりである。こういう国難を仏教では他国侵ぴつの難と言う。国がこういう難に遭うのは国の指導者層の悪思想による。指導者層の徳が薄く、世俗の垢が積み重なっているので天が守らないからである。その元となっているのは忘恩であろう。親や先生や指導者の徳が薄く、恩というものが忘れられているからである。日本は忘恩の国になっているのである。その昔日本は仏教を国教のように重視していた。鳴くよ、鶯平安京だったのである。日本は島国でありながら、昔から争いごとが絶えないが、仏教を国教のように重視していた時期は平和な暮らしをしていたのである。これは仏教が善い思想だからである。指導者層が善い思想によれば、国には徳が重なり天がこの国を守るので国は平和になり、他国から狙われることもなくなるのである。鎮護国家というのは武力よりもむしろ仏法の仏力・法力で国を守ろうとする国の呼び名である。国難は新鎮護国家によって回避できるに違いない。

2018年

4月

26日

チョコ19

今日は4月の末にしては気温が上がっている。空は晴れて、すこし暑さを感じるほどである。コスモスPCサービス高知は開業してから6月で5年になるが、当初から仕事はほとんど増えていない。関係のあるところからぽつりぽつりと仕事が来る程度である。最近はお寺に参詣することがあり、朝な夕なにお経を唱えたりしているので例年ほど暇ではない。パソコンサービスの仕事も今年2件目の仕事が入り、2年ほど前のヒューレットパッカードのノートパソコンの診断の仕事をした。診断の結果、メモリとハードディスクが故障していたので交換し、Windows10のホームエディションをインストールして無事復旧した。この頃の世相で気になっていることは、お役人のセクハラ疑惑、政治家の不適切行動、お医者さんのあおり運転、人気タレントの強制わいせつなど世間的に尊敬され、高額の報酬を得ている人の不行跡である。これらの人々が世間から尊敬を受け、高額の報酬を受けているのはひとえに国というものがあるからである。最近あまり耳にしない言葉ではあるが、国の恩ということを知る必要があると思う。その他大勢の国民みんなにしても人として生活ができているのは国というものがあるからである。当然国の恩というものを知らなければならない。国の恩を知るということは愛国者になれという意味ではない。住んでいる国土を住みやすい所にしていくように努めることである。一頃、日本に核ミサイルを撃ち込むと脅しをかけていたどこかの国の指導者の名前にこの恩という一字が入っているのは偶然であろうか。指導的な立場の人が国の恩を忘れ忘恩の徒になると国全体が忘恩国家になり易いと思う。忘恩国家は他国に狙われるのである。仏教では仏道修行の基礎として報恩ということを教えている。恩を知らないというのでは仏道を歩んでいくことが難しいのである。恩に関して仏教典では四恩ということを説いている。一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩、佛・法・僧の三宝の恩という4つの恩である。仏法では四恩を説いて、業による浅い世間の差別を離れて真の平等性を表している。さらに、殊に大事であると思うのは主・師・親の三徳への報恩と国への報恩である。国の恩を報じるとは立正安国ということである。立正安国とは正しい仏法を護持し、国土を住みやすい国土にするということである。

 

2018年

4月

16日

チョコ18

4月も半ばになって桜も散り、春爛漫の暖かさである。今年は2月には親戚が経営しているデイサービス関係の仕事が入り、3月は県外の寺に参詣などしていたので比較的活動的な暮らしになっている。テレビで世情のニュースを見たりするが、世の中は相変わらず浅く、早く動いているようだ。自民党の総裁選も近いということもあって首相の周辺が騒がしくなっている。一番問題になっているのは首相のご意向がかかったとされる案件についてお役人が不正をしたということである。お役人の仕事は法律に基づいて適正に手続きを進め、国会でできた法律を遵守させることであるが、お役人が本分に悖ることをしたというである。政治家にしてもお役人にしてもそれぞれの本分というものがある。本分を支えているのは最近使われない言葉だが、政治家魂であり、役人魂である。本文に悖ることをしているとこの魂は抜けていく。正確ではあっても魂の抜けたロボット政治やロボット行政になってしまうのである。そういう政治や行政は国民の生活を魂の抜けたロボット生活にしてしまう。以前日本では魂という言葉が良く使われていた。刀は武士の魂。一寸の虫にも五分の魂。日本人には大和魂があり、アメリカ人にはヤンキー魂があった。日本人があまり魂という言葉を使わなくなったのは最近の欧米化が著しいことを物語っていると思う。特に、アメリカのマテリアリズムの影響が著しいのである。マテリアリズムに虚妄はない。しかし正念もないのである。仮想はあっても実体は虚ろである。魂という言葉と共に最近あまり耳にしないのが徳という言葉である。お役人が本文に悖ることをすると役人魂が抜けていくのも徳というものが失われるからである。アメリカのマテリアリズムに関連してAI(人工知能)というものがあちらこちらで喧伝されている。AIに魂を吹き込むのは人である。悪鬼が身に入った人にAIが操られる可能性は常にあるのである。AIというものは人の利便性に供するものである。人の生活を魂のないものにする為のものではない。AIに力があって、人の世が支配されるとすればそれは本末転倒の事態である。さかさまに事が進んでいく。仏教では「本尊」というものを置くことがある。「本尊」は曼荼羅であることもあれば仏像であることもある。仏作って魂入れずという言葉があるが、「本尊」は建立した人の魂と関わっている。「本尊」に手を合わせることはそれを建立した人との魂の連動をすることである。

 

2018年

3月

27日

チョコ17

3月も終わりが近づき、桜の開花とともに今年も春が来ている。24日、25日といつも参詣している寺院の宗派の本山へ参詣してきた。本山は静岡県の富士宮にあり、日本一の富士山の麓にあるお寺ということができる。その日は晴れており、本堂の庭から見える富士山は今までに見たことの無いほど見事に冴えわたっていた。本山への参詣は「登山」と称されているが、往復は高速バスで18時間揺られて行く強行日程であった。当代のご時世では宗教は科学信仰者に押され気味ではあるが、日本では仏教や八百万の神々を信じる人も根強く残っているのである。行きかえりのバスの中で隣に座り合わせた人と最近の世情について語り合ったが、今の首相の周辺が騒がしいという話が出た。首相の悲願とされる現行憲法の改正に思いが至る。日本国憲法は施行され始めてから70年余りの歳月が経過しているので社会の実情とそぐわないところも出てきている。一番問題視されて、改正の対象と目されているのが憲法の施行直後の世界情勢により存在し始めた自衛隊のことである。戦争放棄を謳っている現行憲法の条文に自衛隊を明記するのである。日本国憲法は自主憲法ではないので、改正が戦前の日本のような状況へと回帰するきっかけになるのではないかということを懸念する向きもあるのかもしれない。二次大戦末期の危機的な状況の日本では国体護持ということがいわれていた。思想を統制して、国体を統一し、天皇制を保持するということである。追い詰められた日本が危険思想を排除して、一心同体になろうとする試みであった。懸念されているのは日本という国の状況が危機に陥ると昔歩んだ道に容易に回帰しうるという事であろう。これは島国の日本が一心同体を目指しながら、実は同体異心になっているということに変わりはないからある。思想統制は常に失敗に終わる。同体異心では物事を成し遂げる力は集まらないのである。歴史は繰り返すといわれるが、これは国でも個人でも悪い習いを改めるのが難しいからである。悪い習いを改めるのが難しいのは日本だけでなく他の国も同じである。アヘン戦争はつい昨日のことであった。仏教では身(しん)・口(く)・意(い)の三業ということが教えられている。振る舞い、物言い、思惟という3つによって、人の業が作られて行き、習いとなり性となるのである。法を謗ずること、うそをつくこと、よこしまな思いは悪業を作っていく。悪業の積み重ねの結果できた習いは容易に改めることができないのである。この習いを改められるのは厳しい修行でしかない。悪い習いを改めるのが難しいとしても日本に求められているのは一心同体ではなく、異体同心である。異体同心とは一人一人異なる国民が私を虚しくすることもなく同じところに心を置くことをいう。

 

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2018年

2月

09日

チョコ16

2月に入った。南国高知でも寒い日が続いている。関東や北陸では大雪で交通が麻痺したりしている地域もある。4日に徳島のお寺で高知のお寺と合同の集会があったので参加させていただいた。寒いとはいうものの高知市街では雪が積もることはない。徳島方面では山間部で雪が積もっており、徳島のお寺へと向かう高速バスは時折雪に見舞われた。徳島へ行くと同じ四国の県ではあるが何となく高知との違いが分かる。徳島は高知と比べると地味なのである。高層建築物が少なく木造の1戸建てが多い。ハイカラな飲食店やレジャー施設なども高知では馴染んでいるのに徳島では浮いている感じがする。徳島の街並みを見ていると最近の世の中の変化が一様に進んでいるのではないのを実感する。土地柄というものがあるのであろう。個人経営のコスモスPCサービスでは1件仕事の予定があるが、これが今年の初仕事である。世界的なパソコン販売の状況は今年は良くなると予想されている。しかし、世の中が軽薄短小を指向しており、スマートフォンやタブレットが主流であることに変わりはない。軽薄短小が指向され始めたのは日本では高度成長期の終わり頃で造船や製鉄といった重厚長大な産業から軽薄短小の電子機器や半導体などのハイテク産業へと重心が移っていったことに端を発しているようである。軽薄短小ということは現在では世の中の風潮を作り出している。軽くて持ち運びが簡単、自由に移動できる。薄くて小さく場所を取らない。手間がかからない。しがらみがない。関わり合いが希薄である。拘束性が弱い。反面、吹けば飛ぶような、絆がない、軽薄な、実体感が薄い、真実味がない、などのマイナスイメージもある。最近話題になっている仮想通貨なども軽薄短小と同じ指向のベクトルを発している。必要性を否定できないにしても、実体が虚ろな人工的バブルなのである。最近の世の中は虚実または細工と自然が溶け合って存在しているような状況を呈している。権威や伝統といった重厚長大な方向性のベクトルも根強く放たれてはいるが世の中は浅く速く動いている。世の中は移り変わってゆくが、実体のある実相は過去から現在そして未来へと存在し続けていく。虚ろなバブルは世の中とともに生まれては消えてゆく。仏教では釈尊の入滅を基準に正法・像法・末法という時代の違いを説いている。正法時代1000年、像法時代1000年、それ以後は末法である。現在は末法時代に入って約1000年になる。末法というのは釈尊に縁のない人が生まれてくる時代のことで、本来救いようのない人が生まれてくる時代なのである。正法・像法時代の人に比べると物覚えが悪く、平気で嘘をつき、根性が曲がっている、そういった人々が生まれてくる悪世である。正直者の頭には神が宿るという言葉が日本にはあるが、末法には正直者が少ないのでこういう言葉もあるのである。先頃、日本の由緒ある神社の神主が殺人事件を起こしたが、この神主の頭には神ではなく悪鬼が宿っていたに違いない。日本の宗教界の惨憺たる有様を象徴する事件だと思う。末法に生まれてくる人は正直で素直な人柄になるのが難しいので弛まぬ修業が必要なのである。

 

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