2021年

3月

07日

モッツアレラチーズ2 壱

中学に入学して、1ヶ月経った。自宅のある永国寺町の公立の中学校の校区は高知市立城北中学校であった。小学校時代には学校の授業や課題中心の勉強をしており、取り立てて中学進学の受験勉強はしていなかったので公立の中学校に通う予定であった。高知県では進学校といえば私立の土佐中と学芸中であった。いづれも中高一貫教育で難関大学に進学することを目的としている。公立の中学に入学すると高校に入学するのに試験を受けなくてはならないが、学費があまりかからないので両親の懐にやさしい選択であった。城北中学はその名の通り市の中心にある高知城の北方に位置していた。永国寺町の自宅から自転車で15分ほどかかる。学校に着いて、8:45分から朝礼があった。中学では何かにつけて朝、朝礼があった。朝礼では生活指導の先生や校長の訓話があったり、校歌を斉唱したりしていた。「仰ぎ見る古城の空に、♪輝くは自由の光、地に滿は進取の息吹♪ここ大土佐の中央にああその名燦(さん)たる我らの城北中学校♪♪」古谷校長の訓話が終わり、全校生徒900人ほどの生徒がグランドからぞろぞろと各教室に戻った。入学時のクラス編成で7組在る内の1年5組に組み入れられていた。クラスの担任の先生は東村先生という中年の女先生である。教室に戻り、決められていた席に着いた。2人掛けの机と椅子が横4列縦5列に並べてあった。最前列の席で隣席は西岡というかなり顔立ちの整った女性徒であった。1時限目は数学で正の数負の数の授業を受けていた。授業でポイント試験があり50問ほどの計算問題を解いた。計算の速さには自信があったので5分足らずで書き終え、島崎先生はと見ると教室を生徒の解きようを見ながら席の間を回っていた。驚いたことに僕より速くは問題を解けまいと思っていた隣の女生徒はとうに問題を解き終え、鉛筆を削っていた。6時限目の社会科が終わり、担任の先生の話が終わって、礼をしてから3時半にクラブ活動へと向かった。当時はどの生徒も文化、体育の部活に参加することが義務付けられていた。僕は小学校の頃忍者に興味があったので米津先生が顧問の剣道部に入部した。剣道部は南から北へ向かって3棟ある校舎の更に北側にあった講堂で器械体操部、柔道部とともに練習をしていた。部室は学校の東一帯を占めるグランドの西中央にあるプールの下にあった。部室に入ると傘のある裸電球が薄暗く部室内を照らしており、中学生とはいえ、いぶせき男の体臭が立ち込めていた。まだ袴などの剣道着を作ってもらっていなかったので青い色の中学校の校章マークの入ったジャージを着てへ講堂と向かう。剣道部には各学年5人で15人の生徒が入っていた。兎に角練習する場所に事欠く部であった。グラウンドでは野球部やバレーボール部、テニス部などが練習していたので、野球部のバックネットと講堂の間にある中庭をランニングしていた。ランニングの後講堂でだらしない感じの体操を(いち、に、さん、し、ごー、ろく、しち、はち)といった感じで手をにぎにぎしたりする。後、竹刀の素振りや二人一組の打ち込み(こて、めん、どー)をするのであった。部室で制服に着替えると5時を回っていた。5月なのでまだ明るかった。南側にある校門で同じ部の勝賀瀬君に挨拶をして、帰宅の途に就いた。家に帰って、3階の自室に戻ると弟が誕生日に買ってもらった反射式の天体望遠鏡の手入れをしていた。天体望遠鏡といっても弟はこれを使って、バードウォッチングをしようとしていたのである。永国寺町には街中にもかかわらず、近くに高知城公園がある所為かいろいろな種類の鳥が庭先に訪れるからである。5時半になって3階の隣の父の部屋から読経の声が聞こえ始めて来た(妙法蓮華経 方便品第二・・・・・・)。父はこの頃から仏教に傾倒して日蓮法華宗に入信しており、画風も欧米の抽象画から東洋的な水墨画や浮世絵などを取り入れた絵を模索していた。父が仏教を志した動機はモッツアレラチーズに伴う様々な不安定さの克服にあったと思う。

2021年

2月

17日

チョコ51

令和3年になって、早2月も半ばとなった。パソコンのネット販売の計画を準備中であるが、生活はお寺通いの信心中心になっている。昨日私の通っているお寺の宗派では宗祖日蓮大聖人御生誕800年の佳節を迎え、この日を期して12年にわたって布教を続けた結果、見事に誓願(せいがん)は達成された。宗祖大聖人を末法の御本佛と拝するのが宗門の教義の核心をなしている。従って、100年ごとの御生誕の日は重要な節目となる。今回もコロナ騒動というまさに社会の変質が表に出てくるような大きな変化を体験することとなっている。私はコロナ騒動はこれから急速に終息へと向かっていくだろうと予想している。理由は宗門の世の中への影響力が本物なので、12年かけた誓願の達成によって世の中がいいほうに向かうと思うからである。「大悪起これば大膳来る。」のである。宗祖の御生誕の期日を境として世の中は自然へと回帰し始めると思う。コロナ騒動の終息以後、未来は創るものであるという乱暴な考えは壁によって撥ね返され、自然の流れに沿った未来を受け入れていくという姿勢に変わってくるだろう。人間が幸せな生活をするためにできることは限られているという認識を失わずに1歩でも前に進めていくことである。コロナ騒動で強く思うことは自然の在り方を無視して人間の世の中を創っていくことはできないということである。自然の中に人間の住処を見出していかなければならない。人間は生きていて体のあるうちは未来を創れると思いがちだが、個々の人間は死んでしまって体を失えば未来を創ることはできず、決められたところに行くしかないのである。また、人は死んでしまえば世の中の未来とは世間的な意味として関係がない。すなわち世の人は3世(さんぜ)過去・現在・未来という時間の連続性を見失っているので未来を創れると錯覚するのである。未来を創れると思うのは生きて体があるうちだけなのである。実際は深いところで縁によって繋がって行っているのが実の姿である。昨今の世の中が虚妄に合うものを創るために自然を無視して足掻き、混とんとした不可逆的な状況を生み出し続けているのをコロナ騒動の最中に考えているのは私一人であろうか。コロナ騒動終息を以て世の中が無駄を創るのを止め自然へと回帰し、可逆的な世界へと進みゆくことを期待している。仕事が少なくお寺通いが中心の生活だったので「チョコ」というタイトルのブログは仏教の殊に日蓮大聖人の教えを基礎に綴ってきたが、宗門で目標にしてきた御生誕800年を期しての誓願は達成されたのでこの51本目で「チョコ」は一応の終了を見たい。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経

 

 

2021年

1月

17日

チョコ50

年が改まって17日、お寺通いをしている僕にとっても一番の節目となる宗祖大聖人御生誕まであと1か月と迫っている。私生活では追突事故に巻き込まれたりしているがこれも宗祖の生誕と関係のない話ではなかろう。世に生起する全ての事は繋がりがある。世法(せほう)上の事もそうだが仏法上の事は殊更である。一念三千という法門にそのことが説かれている。世法とは世の中の法律や法規、慣習など一切の法を指す。宗祖の生誕の日から来月16日まででちょうど800年経つ。100年ごとの節目なのである。節目は何事につけても転換点となることが多いのだが、末法の本佛たる宗祖大聖人の生誕の日はあらゆる節目の中で最も重要となる。節目を境とする転換も世間の底の浅いものではなく深いところの転換となるのである。宗祖の生誕から800年を数える令和3年2月16日を目指して本宗宗門では12年にわたって世の中の殊に日本の国の安寧を願って目標を掲げ布教を推進してきた。布教の目的は世の中の又日本の国の様々な災難を誘発する正法誹謗を鎮め、正法を宣揚するためである。果たして、コロナ騒動は起こったのである。コロナ騒動は明らかに現今の世の在り方を人に顕示する働きがあると思われる。また、大きな転換点でもあろう。世界の人々がマスクをかけて右往左往する様を見て正常ないい世の中だと感ずる人は少ないはずである。すべてが狂って、混とんとしていると思うのは僕一人であろうか。本宗宗門は掲げた目標を令和2年いっぱいで完全とは言えないが達成できた。このことは日本の国にとって非常に意義深いことである。達成された目標は誓願(せいがん)だったからである。コロナ騒動はいま日本では蔓延に向かって拡散し続けているが、これを以て思うに宗祖大聖人の御生誕の日を境として次第に終息へと向かうであろう。また、コロナ後は正法が次第に日本から世界へと流布していくに違いない。正法が世に流布していけば狂気の世は次第に正常へと向かう。人が謗法に向かうのは心の病によるのである。疫病の原因は心の病であり、病んだ心から発する謗法なのである。心の病を癒すには法華経によるしかない。正しい本尊に向かって法華経の題目を唱えていくしかないのである。法華経の題目を南無妙法蓮華経という。

2021年

1月

05日

チョコ49

新年あけまして、遂に令和三年がやってきた。コロナは蔓延へと向かっているが、世の中の移動が少ない為か事故・災害などはそれほど報じられていない。遂にというのはお寺通いをしている僕にとって今年は宗祖大聖人が生まれて800年経つという期していた特別な年だからである。宗祖が生まれた時の世の中も天変地夭・災害・疫病があって甚だしく国は疲弊していた。当時の困難さは衣食住に事欠くことが一番大変であったに違いない。今の時代、異常気象や疫病の流行などにもかかわらず日本では路上生活者あるいは恵まれない子供や高齢者を除いては衣食住にはそう困ってはいない。疫病も800年前は人がバタバタ死んでいって人口が何割も少なくなるようなものであったが、今は検査で感染者が増えていることになっているだけで死者は複合的な死因の人も含めて数パーセントである。今の時代は国が疲弊しているというよりは世が衰えているといった趣になっている。この違いは自然と人工の違いであろう。800年前はあまり世の中に人の細工が入っていなかったのでむき出しの自然状態での困難であったが、今は人の下手な細工による困難があるからである。疫病も昔は自然に蔓延して、自然に消滅していったが、今は様々な細工によって歪んでいるので全く見通しが立たず混とんとしている。様々な細工とは現在の医療体制そのものやメディアの情報操作、政府の施策などを指している。自然な見えざる手は人工的ないらざる手と変わっている。細工はどこまで行っても下手な細工に終わるのである。今度のコロナ騒動でも終わってみればこのことが明らかになるであろう。なぜかというと疫病が広がる原因がわかっていないからである。800年前は宗祖大聖人が原因は国中の人が正法に背いて邪法を行じているからこんなことになると声を大にして国を正そうとしたが、今は政府が国民の会食を制限して拡大を抑えようとしているのである。疫病が広がる原因は人の唾液ではなく謗法に求められるべきである。疫病の本体は意外にも心の病だからである。昔は人工的な細工がなかったので謗法もわかりやすかったが、今はわかりにくい。今の世では正常と異常がわかりにくいのと同じことである。うちのお寺の宗派では12年も前からこの時に備えて謗法を駆逐する布教活動を続けてきたが案の定コロナ騒動は起きたのである。謗法とは法華経の心に背く行為である。法華経の心とは仏様の心である。800年前日本の衆生は悉く正に背いていたが、今も全く変わりはない。更に法華経の心とは正直で素直な心である。昔も今も変わりなく求められるのは正直で素直な心を基にして振舞うことである。謗法とは邪(よこしま)な心を基にして謀(たばか)ることである。従って疫病の原因も邪な心に求められる。正邪分明とは六根清浄である。自然状態では正邪を正し、正に帰伏させることも分かりやすかったと思うが、現今の世の人工的細工は六根にまで及んでいるのかもしれない。病が癒えるために求められるのは多様性やあいまいさや逃避ではなく正直さや素直さや健気さといった気質であろう。宗祖大聖人が800年前に声を大にして訴えたことは正しい道理であった。どうかこの先本来のあるべき自然に辿りつけますように。

2020年

12月

11日

チョコ48

今年もあと二十日となって、務めている方はさぞ慌しい時を過ごされていることでしょう。自営業でお寺通いを日常としている私はほとんど静止したような時を過ごしているので師走といえども慌しさはそう感じないのです。次の年の令和3年は宗門の大慶事が控えているので仕事があまり来ても困るかもしれないが、師走は仕事で慌しいことを期待している。コロナ騒動の終息は2022年と予想される中、静止している頭を動かすために小学校の算数の問題を考えていると解き終わっていろいろなことが思い浮かぶ。私は学校は大学まで進んだので、中学、高校など幾度か受験を経験している。受験というのはその学校に入学するのがふさわしい人を選抜する為の試験を受けるということである。教科書に載っている事柄を考え、覚えてそれで合格すればよいのだが、そうすると難関といわれる学校では合格者が多くなりすぎるのでふるいにかける為に教科書外の事柄を出題したり、所謂ひねった問題を出題する。このひねった問題を出題する傾向は小学校の算数などでも見受けれれる。旅人算の追いかける時間の問題などである。このひねった問題の解き方にはひねった考え方をする方法と自然に素直に考える方法の2通りがある。当然普通の人の頭では自然に素直に考えるほうがわかり易い。ひねった考え方ができる人は所謂知能指数の高い人である。ひねった問題を自然に素直に考えていると煩雑な式や計算に追い込まれ時間不足でアウトになる。ひねった問題というのは出題者がそのような意図をもって出題されていると思う。こういった次第で教科書に載っている事柄を考え覚えて、素直に自然に考えてやっていても難関校に合格するのは不可能に近いのである。ひねった考え方のできない人が難関校に合格しようとするとひねった考え方で解かれた解法を覚えるということになる。これではいわゆる4当5落の世界にはまり込むのである。要するに難関校に合格する人はひねった考え方のできる知能指数の高い人かやたらと長い時間勉強をする人なのである。御存じの通り大学の医学部はどこもかしこも難関校である。そうすると医学部に合格して医師となる人はひねった考え方をする人かやたらと時間をかけて勉強する人ということになる。最近テレビで日本の医療現場でコロナにかかった患者の病室での様子が映し出されるが全く殺伐とした様である。昨今の病院は高齢者のみならず病気にかかった人が慈悲のある医療従事者の助けを借りながら自然回復を待つ場所ではなくなってきているように思われるが、思い違いであろうか。日本でリーダーシップをとっている人の多くは難関校に合格し、卒業した人達である。その人達のひねった考え方が日本を動かしているのである。ひねった考え方はスピード感があってスマートに問題を解決できる可能性があるかもしれないが、自然な考え方と比べるととんでもなく見当違いの方向にずれていく可能性もはらんでいると思う。自然な考え方は時に大変な努力を強いられるような煩雑さや泥臭さに見舞われることもあろう。しかし自然な考え方はわかり易く安全性が高いのである。学問を積み重ねて、専門知識があっても智慧が無ければ問題を本当に解決することはできない。パスカルやアインシュタインは知識だけでなく智慧のある人であろう。普通の人では到底見通すことできないような事を見通す智慧のある人達であろう。仏法ではこういう人を辟支佛(ひゃくしぶつ)と呼んでいる。辟支佛は普通の人度は到底見通せないような深い真理を悟るが仏様の深い深い智慧を思惟することは遥かにできないのである。今の日本を変えていくには自然で素直な考えと仏の智慧が必要だと思う。自然で素直な考えは誰でもできるし、仏の智慧は正しい本尊を対境(たいきょう)として法華経の題目を唱えれば湧いてくる。対境とは帰命(きみょう)する対象である。コロナ騒動が日本が良く変わるきっかけとなりますように。

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