2019年

8月

09日

チョコ30

8月に入って、暑い日が続いている。コスモスPCサービス高知では4月から2台オリジナルパソコンが売れたので補充のパソコンを組み立ててホームページに載せている。オリジナルパソコンの組み立てでは中古のパーツを流用してリサイクルすることもあるのでオリジナルパソコンは基本的に中古品扱いである。今パソコンのOSで中心的存在であるマイクロソフトのWindows10はリリースされてからもう5年になるが様々な問題を抱えている。組み立てパソコンの世界でも各部品の相性がきついなどのなどの組み立てに際する不安定要素が多い。安定してから進めばよいのだが、先を焦って躓くと悪くすれば方向性を見失ってしまいかねない。パソコンの世界に限らず、世の中の至る所に不安定要素を抱えている。7月の参議院選では選挙の大した争点もなかったが、2年ほど前に行われた衆議院選挙は国難突破と銘打たれて解散されたのである。国難は2年前よりもさらに深刻になっている。北朝鮮のミサイルや拉致問題は全然解決していない。最近は隣国である韓国とも戦前の問題や経済問題で仲がこじれ対立している。北方領土の問題もロシアからの返還のめどは全くと言っていいほど立っていない。日米安保に基づいてアメリカは日本の国土の中に数多くの米軍基地を養っているが、中国の多面的な日本侵略から日本を守る気はありそうもない。平成の時代に続いた大地震などの様々な天災・人災は令和になっても続くであろう。異常気象や他国の漁業の変化や日本の政策の性急さによって農林水産業は衰退し、食糧の自給はだんだんと危機に瀕している。また、TPPなどによって食の安全性は低下している。メディアでは宇宙探索や新進テクノロジーの成果を宣伝をしており、深刻化している問題を掘り下げたり、検討する必要性を全く訴えてはいないのである。国難に際しては過去から続いている問題を十分考え解決しながら進まなければならない。虚妄の様なテクノロジーの革命では解決の方向には向かわないのである。最近の世の中で不安定要素が増しているのは日本だけでなく国難が世界的な状況だからである。こういう国難は仏法では三災七難と呼ばれるものである。原因は国土に謗法(ほうぼう)が充満しているからである。謗法とは正法に背くこと、すなわち仏の真実の教えを謗り、その教えを伝導する僧俗を誹謗迫害することである。謗法の主なものに十四誹謗(じゅうしひぼう)がある。十四誹謗とは1.驕慢(きょうまん)2.懈怠(けたい)3.計我(けいが)4.浅識(せんしき)5.著欲(じゃくよく)6.不解(ふかい)7.不信(ふしん)8.顰じゅく(びんじゅく)9.疑惑(ぎわく)10.誹謗(ひぼう)11.軽善(きょうぜん)12.憎善(ぞうぜん】13.嫉善(しつぜん)14.恨善(こんぜん)をいう。これらをすべて解説はできないが、謗法の本体は正法あるいは正法を受持するものに対する不信と怨嫉(おんしつ)である。わかり易く言うと十四誹謗の終わりの4つである善を憎み、善をなすものに怨嫉するということである。善とは正法である。今の世の中と関係がないようなことに思えるかもしれないが、今の世の中には謗法が充満している。この証拠は例えば国に降りかかっている三災七難など世の中の様々な解決の困難な根の深い問題が存在していることと関係している。猶多怨嫉経滅度後(ゆたおんしつきょうめつどご)なのである。仏の在世すらなお怨嫉多し、況や滅度の後おやということである。お釈迦様がこの世においでであった善人が多い当時ですら、善をなすものに対する怨嫉は多かった。まして、悪人の多い末法の世では善心を起こし、善をなすものに対する憎悪・怨嫉が強く激しいのは当然のことである。謗法とは善に対する不信と怨嫉である。謗法が充満しているのに謗法が意識されていない世の中は欺瞞(ぎまん)に満ちている。この欺瞞性の基礎は偽善に違いない。偽善とは根の深い解決の困難な問題を浅いところで恰も解決が付いたように見せかけることを含んでいる。善とは正法であり、善へと向かう善心こそ困難な問題を根本的に解決する最大の力なのである。

2019年

7月

26日

チョコ29

7月ももう26日になって梅雨も明け、これから本格的な夏になる。しばらくブログを書けなかったが、最近お寺の布教活動や唱題会などへの参加頻度が高くなっているのでじっくりテーマを追う余裕がないからであろう。この宗派は宗教は理論ではなく実践であるという宗旨なので当然の結果ではある。布教活動をしていると一般市民の生活は急速に進展して半ば混迷の状態の世の中から身を守るように仕事や生活に没頭しているように見える。進展と書いたが実際は目先を新しく見せているだけのことも多かろうと思う。このブログを出しているコスモスPCサービス高知ではパソコンの製作をしているのでパソコンの部品の動向はいささか知っているが、例えばCPUについても一頃のムーアの法則が成り立つような状況にはない。下手をすると世代の新しい部品が旧世代のものより性能が劣る部分が出てきているのは事実である。また、規格を新しくするために前の規格との互換性(特に形状,USB他)を考えないためどんどん立ち消えになっていく可能性がある。一足飛びの進展を求めて地道に過去との互換性を考えられず連続性を失っていく懸念がある。このことはパソコンの世界だけでなく世の中の様々な事柄について言えることである。最近の世の中が混迷状態にあるのはこのことが大きく影響していると思う。21日に参議院選挙があったが、投票率は48%と低い水準であった。世の中が地道さや粘りがなくなる原因は「あきらめ」の念が原因であると思う。あきらめると前へ進んでいるつもりでも実際は逆進しているのではないだろうか。本来進歩というものは石にかじりついてでも1歩先へ進むという人間の魂の力によるものなのである。世の中が混とんとしているのはあきらめの逆進性の表れではないかと思う。逆進性というのは見かけは問題の解決や壁を乗り越えるように見えて、実際は問題の解決から遠ざかっていくという意味である。仏教的にみれば現代は末法の世代である。末法という世代はお釈迦様の法が力を失った五濁悪世である。五濁とは劫濁(こうじょく)=長期の時代の濁り、衆生濁(しゅじょうじょく)=衆生相互の濁り、煩悩濁(ぼんのうじょく)=本能や物質的欲求の濁り、見濁(けんじょく)=ものの見方考え方、思想の濁り、命濁(みょうじょく)=命の濁りひいては生活の濁乱、寿命が短く、浅くなる、この5つの濁りである。悪世とは互いに相争う弱肉強食の世の中ということである。こういう末法の世代の濁りや汚れを清浄にしていく必要がある。あきらめると清浄な世の中はいつまでたってもやってこないのである。清浄で平和な世の中は正しい仏の法を求める魂の力によってもたらされるのである。

2019年

5月

24日

チョコ28

5月も終わりが近づいてきて、時折暑さを感じる日もある。しばらくブログを書けないほど仕事と仏道とに没頭していた。パソコンの仕事のほうはノートパソコンとデスクトップパソコンがそれぞれ1台づつ売れたので、2台新しくパソコンを売りに出すための準備をしていた。仏道のほうは5月17日から19日まで1泊2日でいつも参詣している寺院の宗派の富士山のふもとにある総本山での夏期講習会に参加した。パソコンの仕事も仏道も歩みが1歩進んだような気はしている。世間の事にはほとんど無頓着な生活になっているので世間的には後塵を拝しているのかもしれない。世間では8月に参議院と衆議院のダブル選挙が行われるのではないかということが話題になっている。衆議院の解散については、消費増税の他にこれといった解散理由がないので大義なき解散ということになる。大義は一日で立つという議員もいるが1日で立つにわか大義では志を同じくして選挙を戦うことはできないであろう。戦いにおいて大義を立てるのはそこに共に心を置いて戦うので力を結集することができるからであろう。戦いでは古来より中国に伝わる周の武王と殷の紂王の故事にあるように異体同心して戦うのが肝要である。同体異心や異体異心では力を結集することはできないのである。同心ということがなりよりも大事なのである。異体同心の団結を求める為には面従腹背の衆はもとより論外である。面従腹背の衆は結果的には必ず反逆するからである。更に、最初は同じ大義に心を置いていても心を翻すと異体異心になってしまう。心が翻るのは様々な理由から大義を忘れてしまうからである。1日でできた大義は翌日には忘れ去られてしまうだろう。さて、20から22日にかけて自家用車を車検に出していた。7年目の車検である。自動車事故を免れるためには車の点検整備は欠かせない。最近は死亡事故が減っており、ピーク時の四分の一ほどになっているという。自動車の性能が良くなったことによるというが、道路、標識の整備、交通ルールの順守はもとより整備はさらに重要であろう。交通ルールの整備とは事故が起こりにくくするためのルール作りである。こういうルールを作るためには智慧がいる。仏の智慧が要るのである。正しい本尊に対して読経し、題目を唱えれば六根は清浄となり、仏の智慧がわいてくる。異体同心という団結も本来仏の智慧によってできてくるものであると思う。諸仏の智慧は甚深無量で計り知れない。

 

2019年

2月

09日

チョコ27

2月に入って早9日が経った。今年に入ってまだ仕事は1件も入っていない。そこで相変わらずお寺に参詣し、有難い住職やご僧侶の話を聞き、経文を読んだりお題目を唱えて俗人にしては清浄な生活を送っている。仕事が増えると、バタバタして俗世の垢に塗れるかもしれないので今の生活も信仰の功徳であろう。さて、世の中では今年もいろいろと事件が起こっているが、一番問題視されているのは政府の統計データの扱いの不適切さあるいはあるいは杜撰さである。データは予算の編成やアベノミクスの評価に関わるものなので国民の利益と政府の行政の信頼性に直接響くものである。官庁は統計データの連続性や有用性を重視していないように思われる。統計に関わっている専門の係官は2年ほどで移動するという話だからである。日本だけでなく世の中全体のことかもしれないが、こういう連続性を軽視したあり方は記憶力を低下させるものだと思う。記憶力が低下すると責任の所在や信頼性というものも曖昧になるのである。加えて、国民の記憶力も多様性の中で弱っている。1度あることは2度あり、2度あることは3度あるという意識が薄らいでいるのである。本来信用というものは2度、3度はないのである。仏のように心の広い人ですら同じ過ちを3度繰り返すともう振り向くことはない。記憶力が低下すると反省心が弱くなる。信用というものの力が弱くなり、世の中があやふやなものとなっていく。国民の利益というものが守られなくなるのである。仏教では信用というものは一番大切なことである。仏から受ける信用が信仰の基礎である。仏からの信用が厚くなると仏の智慧が働き、物事がうまく運び人徳も備わってくるのである。仏から受ける信用が薄いと信仰を持続することはできない。誓願(せいがん)という仏との約束を果たすことによって、仏からの信用は厚くなると教えられている。約束を果たすことによって信用が厚くなるのは世間のことも同じであろう。公約を果たさない政治家が2度も3度も当選するというのでは政治は良くならないからである。最近世間でもう一つ重要視されているのは児童虐待の問題である。この問題は仏教的な目から見れば世間的なものの見方とは随分異なるのかもしれない。仏教ではこういう問題を親子の因縁(いんねん)という角度から見ることもできるからである。あまり良い話ではないが、インドの阿闍せ王(あじゃせおう)という王様の仏教説話が思い浮かぶ。阿闍せ王は過去の因縁によって、母の王妃のおなかにいた時から父を恨んでおり((未生怨)みしょうおんという)父の王を殺して王座に就いた。その後その罪によって悪瘡(はれもの)ができて死にかけたが、母の看護と仏の慈悲によって救われるのである。児童虐待は単なる政策では解決しない親子の因縁の問題かもしれない。とにかく、殊更信用が保たれる世の中はいい世の中だと思う次第である。

 

2019年

1月

13日

チョコ26

新年になってもう2週間になろうとしている。まだ仕事は来ていないが、正月気分はとうに抜け出している。6日に徳島にあるいつも参詣しているお寺の宗派の寺院で布教推進のイベントがあったのでバスに乗って出かけた。同じ仏教でも当宗派では他宗派の僧侶のように羽目をはずしたような態度を取るご僧侶はおらず、謹厳実直な方がおおい。法話も現代的なテーマを追いながら深い法門をわかりやすく説かれる。当宗派のご僧侶方は仏教の法を下げるような態度はなさらないのである。最近世間で僧侶が僧衣を着て運転をしていいかということが話題なっているが、時代は変わっても僧侶が社会的に尊敬される立場であることに変わりはない。仏教のイメージを落とし法を下げるようなことは厳に慎むべきである。世間的な話題としてJALのパイロットの飲酒問題があがっている。昨今は自動車の飲酒運転でも極悪行為とみなされている。数百人の命を預かるパイロットの飲酒操縦は世間的にも問題外のはずである。昨今の世間に浸透している物質主義は欲望の充足を第1の目的として広がってきたので社会的に責任の重い人もこの洗礼を受けているのである。表向きは世間で立派な評判を保っている人も影では過度の飲酒などで羽目をはずしているのである。物質主義が浸透している世の中では物質的には何でも手に入るので、特に精神的な清浄さを求めなければ大した窮屈さはないはずなのであるが堕落していくのである。窮屈さを与えるのは法律や世間のルール、しきたりあるいは抽象的な常識といったものである。羽目をはずして堕落したいができない時、逆のベクトルの方向に舵を切る。すなわち、積極的に常識やタブーを破るのである。こういう態度はいい結果をもたらさないことが極めて多い。例を上げると精神病の真の自己の表出、犯罪の着手における犯意の飛躍的ひょうどうである。精神病の発病や犯罪の着手に結びつく、逆のベクトルを利用した堕落である。物質主義の世の中では常識を破るとか、重要なタブーを破るとかいうのは羽目外しの口実であることが多いのである。法やルールは保っていかなければならないのである。仏教的には時が現代は末法に位置している。末法では表立った戒律は不向きであるということが説かれている。私が参詣しているお寺の宗派は戒律という意味では無戒と言える。仏教でも小乗教では250戒といった厳しい戒律を説き、戒律を守ることで灰身滅智(けしんめっち)と言って、煩悩や迷いのもとである身を灰燼に帰するほど律し、思いを滅することで解脱しようとしたが、現代の物質文明の社会には不向きなことは理解できる。キリスト教やイスラム教でも厳しい戒律を守ることが現代では不可能であることは感じているだろう。どのような聖者も世の影響を免れることはできないからである。聖職者が隠れて羽目をはずして見つかり問題になるのはこのためである。末法では身を滅するほどの戒律を守って自己を律し、清浄な生き方をするのはほぼ不可能である。最も深い法によって戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学を保たなければならない。

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